2020年6月8日更新
『マルクスだったらこう考える』(的場 昭弘,光文社新書,2004年12月20日発行)を読了。
グローバリゼーションは,それ自体,資本の文明化作用をもつと同時に,五つの大きな矛盾をはらんでいます。(pp. 33 - 35)(P33-35)
グローバリゼーションの矛盾が,今日,顕在化している。
人間の身体は自然そのものであり,かつ人間が身体を持つ限り,人間は神にはなれません。人間の精神はたしかに神に近い。しかし精神が神に似ることはあっても(人間は何一つ新しいものを創造しえないから),神を超えることはできない。(p. 53)
人間は何一つ新しいものを創造することはできない,というのは何とも夢のない話である。
スピノザの論理はこうです。奇跡は非合理的なものであり,それを神が起こすとしたら,神が非合理的な存在であることになる。しかし,神は合理的存在であるがゆえに,けっして奇跡を起こしません。ここで神ということばを,自然ということばに変えても事情は同じです。自然が奇跡を起こすことはない。奇跡を起こせば,自然の合理的連鎖が断ち切れ,すべての生命は消滅してしまうはずだからです。(p. 77)
奇跡は,非合理的な人間だからこそ,起こすことができる。
共産主義システムが機能しなかったのは,それ自体,資本主義のグローバリゼーションを受けて出現するべきものであったのに,それ以前に出現してしまったからです。レーニンの戦略それ自体は認めるとしても,それは到底マルクスが予想した共産主義システムではなかったということにもなります。(p. 91)
ソビエト連邦ができるのは,早すぎたのだろうか。
「宗教上の不幸は,一つには現実の不幸の表現であり,一つには現実の不幸に対する抗議である。宗教は,悩めるもののため息であり,心無き世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆の阿片である」(『マルクス=エンゲルス全集』)(p. 156)
宗教は民衆の阿片である。阿片は断ち切らなければならない。
もうひとつ皮肉ないい方をすると,実務教育を学ぶことの最大の利点は,彼らが身につけるであろう,これらの知識ではありません。むしろ学ぶべきものを学ばなかったということにあります。すなわち,ちゃんとした経済学や哲学を学ばなかったことで,若者たちは自分がフリーター予備軍として取り扱われていたのだということを自覚できないようになっているのです。これは,大学が社会に対する批判の目を養うための教育を放棄することで,体制に唯々諾々と従う労働者をつくり出すシステムだといえます。(p. 213)
実務ばかりを教えると,実務しかできない者が量産される。体制に唯々諾々と従う労働者は増えるが,体制に立ち向かう者はいなくなる。果たして,それでよいのだろうか。
この,労働が価値をもたない世界では,人々は生産力が少ないなら少ないなりの生活をし,欲しいものを追い求めて,無限に欲求をふくらませることはありません。つまり,誰もがほどほどの分を心得た世界だということです。無限の生産力と無限の欲求の世界が資本主義社会ならば,共産主義社会は比較的小規模の生産力と,比較的小さな欲求の世界ということになります。(p. 226)
資本主義社会も共産主義社会も,両極端なのである。資本主義社会と共産主義社会のいいところをバランスよく取り入れたシステムが求められているのではないだろうか。