『嗤う淑女』に続いて,『ふたたび嗤う淑女』(中山七里,実業之日本社,2021年8月6日)を読了。
大体,一般職だろうが総合職だろうが選択したのは自分自身ではないか。それを今更どの面下げて文句を言っているのか。女だからと言われて悔しければ仕事で成果を出せばいいだけの話であり,結局のところは自分の能力不足を性差のせいにしているだけではないのか。
産休だって同じことだ。好きな男と散々好きなようにセックスして出産したのだ。その子供を育てるからといって勤め先に負担を強いるのは,大概手前勝手だとは思わないのだろうか。(位置 No. 27)
売り手市場なのか,買い手市場なのかで扱い方が変わってくる。現在は労働者が減っていく一方なので,労働者のための施策(勤め先に負担を強いる施策)がもてはやされる。
女の中で女性の地位向上に関心を持っている者など皆無に近い。関心があるのは自分を取り巻く環境だけであり,自分の不平不満が解消できさえすれば,後は野となれ山となれと思っている。(位置 No. 120)
女性の地位向上ではなく,自分の不平不満を解消するために叫んでいる人が多い。
「好き勝手な理屈じゃない。ちゃんと百年の大計を立ててだな……」
「そんな大層な考えを持った人が,どうして街の不動産屋一軒繁盛させられないのよ。お義父さんから代替わりして身上が小さくなる一方じゃないのさ。自分の商売も上手くやれない人間が,どうやったら他人の暮らし楽にできんのよ。ふざけんのもいい加減にして」(位置 No. 2261)
どこにでもいそうな父親像。家業すら繁盛させられないのに,より大きな単位を繁盛させられるわけがない。
「わたしはね,産業発展のためならある程度の犠牲も必要だと思っている。いつまでも補助金頼りの零細農家を保護しているだけでは,<攻めの農業>に転換できない。第一彼らは窮状を訴えるだけで,少しも自己変革をしようとしない。それでは時代に取り残されるのも当然じゃないか」
ああ,これだと思った。
大同の前には小異を捨てる。為政者としてそういう部分は必要だが,一方で社会的弱者や競争力を持たない者への配慮がなければ人心を掴めない。
頭脳明晰で如才なし,同僚議員からの信望も厚い柳井に足りない部分がこれだ。二世として生まれ育ったせいなのか,挫折の苦さも忍従の辛さも知らない。(位置 No. 2571)
至極真っ当なことだけでは,人心は掴めない。人心を掴むために真っ当ではない政策が蔓延ってしまう。
政治家には情けがなければ駄目だ。時には強きを助けることがあっても,弱きを挫くような真似だけは絶対にしてはいかん。ところが息子ときたら頭はいいかも知れんが,肝心の情けがない。頭がよくても情けがないのなら官僚と同じだ(位置 No. 2586)
情けは人のためならず,というではないか。
自己評価の高い人間ほど騙しやすい人種はありません。そして自己評価が無意味に高いから,自分の無能さを思い知った時の絶望はより大きくなるのです(位置 No. 2751)
自分の無能さを思い知らないように取り繕う。
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