『メタバースとは何か ネット上の「もう一つの世界」』(岡嶋 裕史,光文社,2021年12月24日発行)を読了。
幅広い分野で,「モノ消費からコト消費へ」が謳われている。それらは,モノが飽和したので体験の価値が高まったなどと説明されるが,私は「単にコト消費はコピーされにくいから,商売しやすい」が理由だと考えている。アイドルの握手会はその最たるものだ。(20 ページ)
コピーされにくいコト消費を生み出そう。
メタバースは色々な文脈で使われるが,meta(超えた)-universe(世界,宇宙)からの合成語である。これを高次世界とすると,三次元空間に対する四次元空間のように上下関係があるかのように印象づけてしまうので,「もう一つの世界」がいいと思う。(26 - 27 ページ)
メタバースは,もう一つの世界。
自由を獲得すると,もれなく責任がついてくる。能力や資源に恵まれた人はいいのだけれど,そうでない人にとっては自由はけっこうしんどい。自由平等と何の気なしに言うが,自由と平等は食い合わせが悪い。自由にすると差が生じ,平等を推し進めると自由でなくなる。(30 ページ)
『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム)か。
SNS はフィルタリングにフィルタリングを重ね,慎重に設計されたグループの中に利用者を囲い込む。その囲い(フィルターバブル)の中はパラダイスだ。あまりにも快適で,つい長い時間を過ごしてしまう。その長い時間の間に広告を見せるのが SNS のビジネスである。(32 ページ)
YouTube を見ていると,興味のある動画が次々に提示され,つい長い時間を過ごしてしまう。
メタバースの目的地は「リアルを超えてもう少し居心地のいい場所」にある。まだ遠い目標だが,ここ数年で各企業は「さほど長くない期間で実現可能」と踏んだのだ。だから,血で血を洗う領土紛争をしている。メタバースの世界で覇権を握った者は,少なくとも四半世紀は小国家の GDP 並みの売上を得られるだろうからだ。(64 - 65 ページ)
メタ(旧フェイスブック)の決算を見ていると,本当に血が流れていそう。
そんな激しい争いを制すことは難しいが,メタバースの世界でできることを考えてみよう。
「言論によって士大夫を殺さず」は,すでに宋の時代に合意があった。現代に至る言論の自由の命脈である。しかし,現代は言論によって簡単に殺される。誰に言ったでもないつぶやきで刺され,価値規範や正義の基準が今とは違っていた過去の発言にまでその正義の刃は遡及適用される。(181 ページ)
人の価値規範や正義の基準は不変ではないのに,過去の発言まで遡及適用されるのは,いかがなものか。