2020年2月3日更新
『とてつもない日本』(麻生太郎,新潮新書,2007年6月10日発行)を読了。
日本ではよく「カローシ(過労死)」を例に挙げて,日本人は働き過ぎだ,日本人の働き方は間違っているという人がいる。だがそれはあまりに自虐的で,自らを卑下し過ぎてはいないだろうか。「ノーキ」を守る勤勉さは,私たちが思っている以上に,素晴らしい美徳なのである。(p. 12)
納期を守ることは大事。
しかし,必要以上に仕事をしているから,働きすぎになるのではないだろうか。
でも,ちょっと待っていただきたい。日本は本当にそんなに「駄目な国」なのだろうか。そんなにお先真っ暗なのだろうか。
私は決してそうは思わない。むしろ,日本は諸外国と比べても経済的な水準は相当に高いし,国際的なプレゼンスも極めて大きい。日本人が考えている以上に,日本という国は諸外国から期待され評価されているし,実際に大きな底力を持っているのである。(p. 13)
諸外国から日本がどのような評価を得ているのか。
本音を聞いてみたい。
Peace and Happiness through Economic Prosperity and Democracy.
「経済の繁栄と民主主義を通して,平和と幸福を」という意味だ。(p. 34)
平和,幸福のために経済の繁栄は必要。
一方,欧米はもう少しロボットというものに懐疑的だ。何でもチェコ語で「強制労働」を意味する「ロボッタ」がロボットの語源だそうだ。(p. 55)
日本人が「ロボット」に持つイメージとは異なるもの。
教育でも同じことが言える。学校での成績,有名大学卒業という経歴……,そんなものが実社会では大して役に立たないことは,オウム真理教の騒ぎを見れば一目瞭然である。そもそも一緒に働きたいのは,高学歴者ではなくて,「気持ちのいい人」「波長の合う人」である。(p. 66)
「気持ちのいい人」「波長の合う人」とは,価値観を共有できる人ということか。
残念ながら格差が生じた理由が,本人の努力不足のためか,それとも運が悪かったためなのかを,第三者が正確に判断することは不可能だろう。ただし,努力して差がつかなければ,努力する人の数は減ってしまう。その結果,社会から活力が失われるかもしれない。逆にすべてを努力や才能の結果と見なすと,強者のみが生き残ることになる。(p. 96)
社会の活力を維持するために,ある程度の競争は必要である。
競争に伴う格差も許容すべき。
にもかかわらず,官僚は自分たちの権限(予算,人員……)を手放そうとしない。しかも「官僚主義」,つまり前例にこだわり,新しいことに手を出すことに慎重で臆病な性質がはびこったままである。この官僚が牛耳っているシステムが維持されるようでは,地方の活性化はのぞむべくもない。(p. 118)
官僚には,私のためでなく,公のために働いてほしい。
国家のために尊い命を投げ出した人々に対し,国家は最高の栄誉をもって祀らねばならない,ということは,普遍的な原則として世界中で認められていることである。これを否定する国家は存在しない。そうでなければ,なぜ命を賭してまで戦わねばならないのか,国家は兵士に説明ができない。(p. 142)
靖国神社参拝は堂々と行うべし。
大風呂敷を広げやがって,と思われるかもしれない。
しかし,ビジョンとは大風呂敷である。
そして日本の外交には,ビジョンが必要である。(p. 186)
ビジョンがなければ,未来は語れないし,進むべき方向も定まらない。