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「空気」の研究 山本 七平

『「空気」の研究』(山本 七平,文藝春秋,2018年12月20日)を読了。

日本の道徳は,現に自分が行っていることの規範を言葉にすることを禁じており,それを口にすれば,たとえそれが事実でも,"口にしたということが不道徳行為" と見なされる。従ってそれを絶対に口にしてはいけない。これが日本の道徳である。(位置 No. 46)

日本の道徳とは,一体何なのか。

むしろ日本には「抗空気罪」という罪があり,これに反すると最も軽くて「村八分」刑に処せられるからであって,これは軍人・非軍人,戦前・戦後に無関係のように思われる。(位置 No. 117)

空気に反することが許されなければ,日本の空気を変えるのは,相当に難しいのではないだろうか。

われわれが常に,論理的判断の基準と,空気的判断の基準という,一種の二重基準のもとにいきているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが,本当の決断の基本となっているのは,「空気が許さない」という空気的判断の基準である。(位置 No. 162)

論理的な判断基準よりも,空気的な判断基準が優先される。論理的には正しくても,空気がそれを許さなければ,正しいと判断されない。

対象の相対性を排してこれを絶対化すると,人間は逆にその対象に支配されてしまうので,その対象を解決する自由を失ってしまう,簡単にいえば,公害を絶対化すると公害という問題は解決できなくなるのである。(位置 No. 726)

解決できない問題ばかりが,積みあがることになる。

多数決原理の基本は,人間それ自体を対立概念で把握し,各人のうちなる対立という「質」を,「数」という量にして表現するという決定方法にすぎない。日本には「多数が正しいとはいえない」などという言葉があるが,この言葉自体が,多数決原理への無知から来たものであろう。正否の明言できること,たとえば論証とか証明とかは,元来,多数決原理の対象ではなく,多数決は相対化された命題の決定にだけ使える方法だからである。(位置 No. 918)

国会,県議会,市議会での多数決は,相対化された命題の決定にのみ,使われているのだろうか。

「日本人が憲法を扱う態度は,まるで根本主義者が聖書に対するようだ」という一アメリカ人の批評は,ある意味であたっているが,ある意味ではあたっていない。(位置 No. 2629)

日本人が憲法を扱う態度は,よくわからない。

「人は未来に触れられず,未来は言葉でしか構成できない。しかしわれわれは,この言葉で構成された未来を,一つの実感をもって把握し,これに現実的に対処すべく心的転換を行うことができない」(位置 No. 2777)

未来を言葉にしても,それだけでは人々の心は変わらない。

「ジュッと熱く感じない限り理解しない人たちだから,そんなことをすればどうなるかいかに論証したって耳は傾けない。だから一度やけどすればよい」(位置 No. 2807)

論証しても,耳には届かず,やけどをしても,結局は変わらない人もいる。一体どうすれば,いいのだろうか。

「民はこれに依らしむべし,知らしむべからず」(位置 No. 2807)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると,封建時代の政治原理の一つ。出典は『論語』泰伯編。「人民は従わせることはできるが,なぜ従わねばならないのか,その理由をわからせることはむずかしい」という意味。

私の経験とも,よく合致している。

結局,民主主義の名の下に「消した」ものが,一応は消えてみえても,実体は目に見えぬ空気と透明の水に化してわれわれを拘束している。いかにしてその呪縛を解き,それから脱却するか。それにはそれを再把握すること。それだけが,それからの脱却の道である。人は,何かを把握したとき,今まで自己を拘束していたものを逆に自分で拘束し得て,すでに別の位置へと一歩進んでいるのである。人が「空気」を本当に把握し得たとき,その人は空気の拘束から脱却している。 (位置 No. 2927)

まずは,自分を取り巻く空気を把握することから始め,空気から脱却する。