野球 × データ = 大好物,ということで『セイバーメトリクスの落とし穴 マネー・ボールを超える野球論』(お股ニキ(@omatacom),光文社,2019年3月30日)を読了。
データをもとに最も効率的な野球を展開するのはマネジメント・経営サイドとしては当然だが,本当にファンが求めている野球とは何なのか,エンターテイメントと結果重視のバランスを再考する段階に来ている。(p. 27)
野球にはエンターテイメント性があるため,効率だけを求めてはならない。
イチローの MLB での活躍は,本当にセンセーショナルだった。細身の日本人選手が巧みなバットコントロール,スピード,華麗な守備や強肩で大男たちを翻弄していくのだからまさに痛快だった。ホームラン全盛のステロイド時代ど真ん中に突然現れた東洋のスピードスターに,アメリカ人も相当な衝撃を受けたのは間違いないだろう。(p. 33)
MLB に移籍した 2001 年から 2010 年まで,10 年連増で 200 安打以上を達成していることは,相当な衝撃だった。
才能にあふれたトップアスリートの誰もが合理的なトレーニングを行うため,精神面が勝敗を分けることも多い。身体が強くコンディションをコンスタントに維持でき,メンタルトレーニングもきちんとして互角の戦いを抜け出せる者が最後は勝つのだろう。ここまで方法論がハッキリしてしまうと,結局差がつくのは元からの才能という,逆説的で残酷な世界になりつつある。(p. 38)
心と体のトレーニング方法が確立されつつあるので,結局差がつくのは元からの才能になってしまう。
フレーミングは「ボールをストライクと判定させる,審判を欺く行為」ではなく,「ボールの軌道を先読みし,アウトサイドインの柔らかな捕球で確実にストライクを稼ぐ技術」と捉えるべきだ。(p. 168)
これから野球を見るときには,フレーミングに注目してみよう。
野村氏が著書で,松下幸之助の言葉として紹介している次の文章が印象深い。
「"勘" というと一般的になんとなく曖昧なもののように思われるけど,習練を積み重ねたところから生まれる "勘" というものは,科学も及ばない正確性,適確性をもっている。そこに人間の習練の尊さというものがある」(『野村の流儀 人生の教えとなる 257 の言葉』野村克也著 ぴあ)(p. 182 -183)
習練を積み重ねたところから生まれる「勘」を信じてみよう。
いつまで経っても同じようなミスをしている監督は学習能力が低いか,元々の考えがズレているのだろう。(p. 193)
いつまで経っても同じようなミスを繰り返す監督は,解雇されても仕方がない。
とにかく,世の中は栄枯盛衰である。適材適所の人材配置と新陳代謝は必要不可欠だが,日本はあまりにも(国家レベルでさえ)これが停滞しており,閉塞感に繋がっている。体験しなければわからないこともあるだろうが,昨今はノウハウの蓄積が進み,経験や年齢のアドバンテージは小さくなってきている。正直,若い世代はかなり優秀なので,彼らに任せて次世代の指導者を育成していくべきだ。(p. 199)
政治のレベルで,適材適所の人材配置と新陳代謝を進めていかなければ,日本は閉塞感から脱することができない。
データは決して万能ではなく,どんなに高度な統計技術を用いても,主観やバイアスが入るリスクは消し去れない。元々のデータ自体が事実を 100 パーセント表現しているとも言いきれない。(p. 282)
データは万能ではなく,事実を 100 % 表現できないことを理解しておく。
OPS のようなセイバー的な指標は客観的で選手の能力を正しく表していて,打率・打点・ホームランといった「旧指標」は主観が入りこんでいて選手の能力を正確に示さない「欠陥指標」であるという誤解も多い。実際にはセイバー指標も打率も打点もホームランも全て,過去に起こった出来事の集計に過ぎず,性質としては同じものである(打球速度や角度,回転数や回転軸などは結果ではなく,プレーそのものの生データである点で異なる)。(p. 284)
セイバー指標も打率も打点もホームランも全て,過去に起こった出来事の集計に過ぎないけれど,それを見るのは面白い。
データ分析も結局はセンスと感覚,切り口が重要であり,そのためには野球を深く理解している必要がある。(p. 291 - 292)
データ分析には,分析対象の事柄を深く理解していなければならない。
例えば会社でも不良品ゼロを目指して完璧な品質管理や厳しいチェックをしすぎると,かえってコストが高くなるだけでなく社員も疲弊してしまうだろう。失敗を「ある程度」まで減らす努力は不可欠だが,費用対効果を考える必要がある。(p. 322)
失敗を減らすコスト,失敗が起こったときのコストを比較して,失敗を許容できないか考えてみる。