2021年5月21日
『遅いインターネット』(宇野 常寛,幻冬舎,2020年2月発行)を読了。
多くの現役世代が実感しているように,この国は技術的にも社会的にも周回遅れになっているのだ。いまだに通帳と利子が幅を利かせ,実店舗に足を運ぶことを要求される金融取引,既存の業界の雇用を守るという大義名分で規制されるライドシェア……これでは絶対に諸外国と戦えないと絶望したビジネスマンは数知れないはずだ。(位置 No. 142)
絶望しても立ち上がり続けなければ、この国は変わらない。
今日において明白なのはソーシャルメディアによる「動員の革命」とは,ポピュリズムの一形態に過ぎないということだ。その動員力はテレビのそれよりも弱い。しかし,よりアクティブで熱狂的な参加者がそこには集う。その局所的な熱量の高さ,瞬間最大風速の強さは,それがより一過性の狂躁であることを意味していた。(位置 No. 198)
革命を起こすための同士を集めるのに、ソーシャルメディアは有効。
いまこの国のインターネットは,ワイドショー/Twitter のタイムラインの潮目で善悪を判断する無党派層(愚民)と,20 世紀的なイデオロギーに回帰し,ときにヘイトスピーチやフェイクニュースを拡散することで精神安定を図る左右の党派層(カルト)に二分されている。(位置 No. 212)
愚民とカルトしかいない世界は変わらない。
あの新国立競技場は,かつての戦艦大和のようなものだ。もはや時代遅れの無用の長物でありながらなけなしの,しかも膨大な資源と人員と予算を投じて建造された帝国海軍の象徴としての巨大戦艦は事実上なにひとつ戦果を上げることなく,沖縄の海に沈んでいった。あの決定的な敗戦から 70 年と少し。この国の人々は再び大和を建造してしまったのだ。(位置 No. 254)
将来、新国立競技場はどのような文脈で語られるのか、戦艦大和のような文脈なのか、それとも・・・。
21 世紀に入りインターネットの普及に代表される情報環境の変化は他人の物語から自分の物語へ,人類の関心の重心を大きく移動させた。考えてみれば当たり前のことだが,(それがどんなにユニークでドラマチックなものであったとしても)自分の物語を語るほうがより大きな快楽を人間にもたらす。(位置 No. 1418)
人は、自分の物語だからこそ、感情を移入しやすい。
インターネットという素晴らしい装置は,発信能力を与えられたところで発信に値するものをもっている人間はほとんどいないことを証明してくれた。たしかに世界は多様だがこれらの多様さを確保しているのは一握りの天才と(言葉の最良の意味での)編隊たちで,たいていの人間の考えていることは少なくとも自己評価ほどにはユニークではない。いや,はっきり言ってしまえば一様なものに過ぎない。そのことをインターネットは証明してくれたのだ。(位置 No. 2159)
デジタル技術やデータを活用できるか否かで、人の格差は開いていく。
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