2020年1月7日更新
『戦後教育で失われたもの』(森口朗,新潮新書,2005年8月20日発行)を読了。
学校教育において「正しい」とされてきたことが,本当に正しいのだろうか。もしかすると我々は,どこかでとんでもない間違いを犯しているのではないだろうか。(p. 14)
小中学校の教育に感じた私の違和感の正体は,これだったのか。
この手の不幸は「全員百点」では絶対に救えません。本当はさほど有能でもないのに「自分は有能だ」という意識だけが肥大化した子ども。それを作り出すのもテストならば,そういう人間の大量生産を抑制するのもまたテストなのです。(p. 29)
100 点満点のテストはいくつもあった。
しかし,100 点満点が取れなくなっていく過程で,自分の能力を認知していく。
「課題を発見し解決する能力が求められている今日,テストで測定できる学力だけでの競争は時代錯誤である」(p. 33)
テストの点がよいひとに課題発見,解決能力はないかもしれないが,テストの点数が悪い人に,課題発見,解決能力はあるのだろうか。
人は自分の知識の外にあるものを憎む傾向にありますから,それも一つの理由でしょう。(p. 43)
なるべく知っていたい。
優秀な者は乾いた大地が雨を吸い込むように知識を吸収していく。並の者はそれなりに。できの悪い者は教える側の忍耐が試されているかのごとく知識を受け付けない。学校に限らず,会社であれ職人の世界であれ,人にものを教えた経験のある人なら誰でも知っている真実です。(p. 58)
色々なバックグラウンドを持つ人に対して教える時に,すごく体感できる真実。
優等生と劣等生では,どちらが学校に対して郷愁を抱いているでしょうか。あくまで私の経験ではありますが,自分を劣等生という人ほど学校に対する郷愁が強いように感じます。そして,その郷愁の中心にあるのは,ダメな自分を見捨てなかった先生です。(p. 60)
小中学校の先生の名前が思い出せないかもしれない。
子どもの学力を決定付ける最大の要因は親の知性そのものです。話していて「この人,頭がいいな」と感じる親の子どもは賢いし,そうじゃない人の子どもはそれなりです。まさしく遺伝です。(p. 66)
自分の子が賢くなるように,自分自身の知性を高めておく。
オギャアと生まれた時に親は所与の条件として決まっているのです。競馬に夢中な親より,書斎で研究書を読み漁る親のもとに生まれた子の方が,成績優秀になる確率が高いことを「不平等」と嘆いても仕方ないのです。(p. 70)
親の背中を見て子どもが育つならば,学び続ける姿勢を見せたい。
こんな試験が解けることと親の経済力になんの関係があるのか。この程度の問題が解けない理由に親の経済力を持ち出す必要があるのか。(p. 75)
試験問題のレベルがそもそも低すぎる。
そして,制度的な能力主義として登場し,身分社会を打ち砕いたのが学歴社会なのです。ですから「学歴社会の終焉」など簡単に来るはずがない。何せ,有史以来続いた強固な身分社会を打ち砕いて誕生したシステムなのですから。(p. 81)
身分社会を打ち砕いた学歴社会が,簡単に終わるはずがない。
ちなみに,これは本場イギリスの NEET とは異なるものです。NEET は,1998 年にイギリスのブレア政権が福祉政策を見直すに当って登場した単語です。Not in Education, Employment or Training の頭文字をとって NEET と称しました。内容的には「16 歳から 18 歳」「就学せず」「就労せず」「就労訓練せず」で,最後の「就労訓練せず」というのがミソです。(p. 115)
NEET の定義を再認識。Not in Education, Employment or Training.
その理念が正しいかどうか別にして,連合国が日本に日本国憲法を押し付けたのは,日本を武装解除し長期的に(できれば未来永劫)弱小国の地位にとどめておくためです。
教育改革も目的は同様です。戦後教育に謳われた平等も平和も民主主義も素晴らしい理念ですが,それらが日本を強国に育てるものであっては困るのです。(p. 132)
日本国憲法と教育基本法は,自国の未来を決めるものであり,自国製にしたい。
戦中教育を「右派全体主義」の奇形であるとするならば,戦後教育の根幹たる教育基本法は「左派全体主義」の奇形性を代表する代物と言えるでしょう。(p. 151)
右と左どちらにも極端に振れることができるのが日本なのか。
誰からもコントロールされることなく,好きなように国民を教化できる存在。それは神同然です。教育基本法によって教師は神になったのです。なぜ教職員組合が執拗に教育基本法改正に反対するのか,最大の理由はここにあります。(p. 153)
決して教師は神ではない。
一方が完全な正義で一方が完全な悪ということはありえない。そんな当たり前のことさえ,左翼全体主義教育では教えられていない,その歪みを指摘したいだけなのです。(p. 160)
レッテル貼りをする根源は学校教育にあったのか。
自らの美しさを素直に見つめ自覚し堂々と誇ること,そこから始めれば,我々が誇りを取り戻す道は険しいけれど,決して遠くはないと思うのです。(p. 165)
美しい国である日本を見つめなおそう。
共同体意識が最も高まるのは祭です。あの一体感をあらゆる場で体感することは,極めて重要です。(p. 184)
共同体意識はときには煩わしいものかもしれないが,あの一体感を味わうと煩わしくても続けていかなければならないという気になる。
学校という枠に納まらない天才は,放っておいても自分でやりたいことを見つけて成就します。天才に教育論は不要なのです。それが天才の天才たる所以です。(p. 189)
いかなる教育においても,その枠にはまらない天才は現れる。
今の教育で,天才が不意につぶされていないかだけが心配である。