『東電帝国 その失敗の本質』(志村嘉一郎,文藝春秋,2011年6月20日)を読了。
当時,各社の経済部では,電力記者会を「サナトリウム」(空気の良い場所にある結核療養所)と呼んだ。病み上がりの記者や西の本社に異動待ちの記者などを配置し,部長やデスクは,電力担当記者からの出稿を期待していなかった。朝日新聞経済部では,社主の御曹司(現社主)が駆け出しのころ電力記者会に送り込んでいる。「特ダネを他者に抜かれる心配がなく,御曹司を傷つけたくない」という編集幹部の親心だったのだろう。(p. 58)
2011年,電力記者会は「サナトリウム」ではなくなった。あれから十数年経った今はどうだろう。
原発の法定償却年数は 16 年。16 年で償却が終われば,17 年目以降は償却費ゼロとなるので,会社にはさらに利益をもたらすことになる。(p. 86)
原子力発電所の安全対策の投資が続いているので,償却費ゼロにはならない。原子力を動かすことができれば,電力会社に大きな利益が生まれるのに,それができないことがもどかしい。
<今回の不祥事は東京電力,そして原子力そのものへの信頼を大きく損ねたことに変わりはありません。では一体,どうして起こってしまったのか。原子力のことは東京電力が最も分かっているというプライド,その裏側に潜んだおごりだったのではなかろうか。>
相次ぐ原子力の不祥事で引責辞任した東京電力の第九代社長の南直哉は,「日経ビジネス」2002年12月2日号の「敗軍の将,兵を語る」で語っている。(p. 92)
2002 年の反省があっても,2011 年の福島第一原発の事故は防げなかった。
東電の歴代経営者は,原発専門家を軽視する姿勢を続けてきたのである。しあたがって東電の原子力専門家は,東電経営陣には入れてもらえず,自分の村をつくらざるをえなかった。(p. 95)
「補佐する人は,決断する人が必要だと思った時に,目の前に姿をあらわしていなくてはいけない。逆に必要でない時はしゃしゃり出てはいけない。その判断が以心伝心だ。そうならないうちは完全な補佐とはいえない」
社長は自らのコピーを育て,コピーに引き継ぐ。社長の侍従長が,社長になるというのは,そういうことか。
VUCA の時代,そのような後継者ではやっていけない。
電源開発は2003年10月に電源開発促進法が廃止され民間出資の普通の株式会社となり,昔のイメージを変えるため J パワーと呼ぶようになった。総裁はほとんど通産省の次官経験者だったが,民営化後,初めて生え抜きの社長が誕生した。(p. 138)
J パワーと電力会社との違いについて,よく知らなかった。一線が画されていることを認識しておく。
52 年,サンフランシスコ平和条約が発効し,日本は占領下から独立した。そこで吉田首相は公益事業委員会を廃止し,電気事業行政を通産省に戻す。このため松永も委員長代理を首になった。このとき松永 77 歳。わずか 3 年の間に,二枚腰三枚腰で思い通りの九電力をつくってしまった。”電力の鬼” と言われるゆえんである。松永が民間の活力を中核にして,全国の電気事業を電力融通によって発展させる構想を発表してから,30 年近い年月が経っていた。(p. 190)
電力の鬼といわれる松永がいなければ,九電力体制は違う形になっていたかもしれない。
原発の管理は本来,危機管理(クライシス・マネージメント)として対応しなければいけないのに,東電ではいつのまにか損得にかかわるリスク・マネージメントにすりかわっていた。(p. 204)
クライシス・マネジメントとリスク・マネジメントの違いを理解しておきたい。
損得ではないクライシス・マネジメントは,民間企業で実践できるものだろうか。
電力会社が,自分の意志で停電させれば,電気事業法で義務づけられている供給責任を放棄したことになる。供給責任の義務違反は,供給義務の見返りに与えられている地域独占の権利違反となる。すなわち,供給責任の放棄は地域独占の放棄なのだ。(p. 224)
地域独占という果実を得るために,供給責任を負っている。
