『逆説の日本史1 古代黎明編 封印された「倭」の謎』(井沢元彦,小学館,1998年1月1日)を読了(人生 3 回目くらい)。
この「真の知恵」とは何かと言えば,それは結局「仏の教え」なのだが,要は「いかに誠実で慈悲深くても,あるいは無私の心があり人望があっても,それだけではだめだ」ということなのだ。
これと似た西洋の諺に「地獄への道は善意の石で敷きつめられている」というのがある。
善意さえあれば,誠意さえあればいい,というのは間違いだ,ということを言っているのだが,この諺も日本人が最も嫌うタイプのものだろう。(位置 No. 1171)
善意と誠意には気をつけた方がいい。
日本人はどういう形にせよ,人前で「戦う」ことが嫌なのだ,と。つまり「討論」がいけない。「討」とは戦うことである。あくまでおだやかな「話し合い」で決まったという形をとりたい。そういう考えが底にあるのではないかと気付いたのである。(位置 No. 1408)
2020 年代になっても,おだやかな「話し合い」を求める風潮は変わらない。
『旧約聖書』の神は太陽神ではない。しかし,神は光をもって世を照らし闇に勝つ。
一方,闇は邪悪と死の象徴である。
悪魔(サタン)は別名を「プリンス・オブ・ダークネス」つまり暗黒の王子という。
この聖書の世界での「闇」にあたるものが,日本の神話では「雲」なのだ。(位置 No. 2106)
悪魔は暗黒の王子ということを知識として覚えておく。
「選民」とはエリートのことではない。
だから「選民思想」もエリート意識とは,ちょっと違う。
エリートとは,同じ民族や国民の中で,特に選ばれた人々のことだ。
しかし,選民とは,その民族全体を神が選ぶこと,あるいは神によって選ばれた民族のことで,民族全体をさすのである。(位置 No. 2854)
選民とエリートとの違いを知る。私が持つのはエリート意識であって,選民思想ではない。
日本の,どっぷりとヌルマ湯につかった世界,なれあいばかりで真の対立や協調のない世界,これこそ「わ」の世界そのものである。(位置 No. 4727)
なれあいと協調は全く異なる。ヌルマ湯につかった日本において,心理的安全性は誤って伝わっているのではなかろうか。
結論を先に言ってしまえば,結局日本というのは未だに「話し合い」の文化が生きており,このためにすべて全員一致か,それに近いかたちで話をまとめようとするから,何事もうまくいかないのだ。しかも最大の問題は,日本の政治機構がそもそもそういうドラスティックな決断ができないように,権力機構もそれに対応して,権力が分散されているということである。もちろん,責任というのは権限つまり権力に基づくものであるから,権力が分散されているということは,結局責任も分散されてしまい,誰も責任をとらない体制,いや正確に言えば誰の責任かわからないような体制というものができるということなのである。(位置 No. 4849)
日本の政治機構がドラスティックな決断ができないようになっているのであれば,誰が総理大臣になっても,日本はドラスティックに変わらない。