『今夜,すべてのバーで』(中島らも,講談社,2021年1月1日)を読了。
酒を飲むのが好きな人は,ぜひ読むことをお勧めする。
ただな,肝臓に関しては,特効薬みたいなものはない。巷で売っとるような強肝剤は,ありゃ全部パチモノ,と言って悪けりゃ補助的なものでしかない。唯一の治療法というのは,安静,睡眠,高蛋白の食事だ。(21 ページ)
安静,睡眠,高蛋白な食事で,肝臓をいたわってみたい。
アル中になるのは,酒を「道具」として考える人間だ。おれもまさにそうだった。この世からどこか別の所へ運ばれていくためのツール,薬理としてのアルコールを選んだ人間がアル中になる。
肉体と精神の鎮痛,麻痺,酩酊を渇望する者,そしてそれらの帰結として「死後の不感無覚」を夢見る者,彼等がアル中になる。これはすべてのアディクト(中毒,依存症)に共通して言えることだ。(48 ページ)
酒を「道具」として考えていては,アル中になってしまうかもしれない。
退屈がないところにアルコールがはいり込むすき間はない。アルコールは空白の時間を嗅ぎ当てると迷わずそこにすべり込んでくる。あるいは創造的な仕事にもはいり込みやすい。創造的な仕事では,時間の流れの中に「序破急」,あるいは「起承転結」といった,質の違い,密度の違いがある。イマジネイションの到来を七転八倒しながら待ち焦がれているとき,アルコールは,援助を申し出る才能あふれる友人のようなふりをして近づいてくる。(50 ページ)
空白の時間,創造的な仕事,アルコールとのつき合いが深くなるのは,致し方がない。
日本におけるアルコールの状況は気狂いの沙汰だ。十一時以降は使えないが,町中にあらゆる酒の自動販売機が設置されている。テレビ局にとって,ウィスキー,ビール,焼酎,清酒の広告宣伝費は巨大な収入源だし,酒税は年間二兆円にものぼる税金収入だ。つまりは,公も民も情報も,一丸となって「飲めや飲めや」と暗示をかけているのだ。(125 ページ)
アルコールに溺れる環境は整っている。
「教養」のない人間には酒を飲むことくらいしか残されていない。「教養」とは学歴のことではなく,「一人で時間をつぶせる技術」のことでもある。(128 ページ)
「一人で時間をつぶせる技術」を身につけ,酒を飲む時間を減らす。
酒をやめるためには,飲んで得られる報酬よりも,もっと大きな何かを,「飲まない」ことによって与えなければならない。
それはたぶん,生存への希望,他者への愛,幸福などだろうと思う。飲むことと飲まないことは,抽象と具象との闘いになるのだ。(202 ページ)
生存への希望,他者への愛,幸福がないから,酒がやめられない。
酒を飲む人はだいたい脂肪肝になるもんだが,普通の酒飲みなら半月も禁酒すれば脂肪はきれいに消える。(220 ページ)
半月も禁酒するのは難しい。
「飲む人間は,どっちかが欠けてるんですよ。自分か,自分が向かい合ってる世界か。そのどちらか両方かに大きく欠落してるものがあるんだ。それを埋めるパテを選びまちがったのがアル中なんですよ」(223 ページ)
パテ選びは間違いたくない。