2020年8月5日更新
『「上から目線」の構造』(榎本 博明,日経プレミアシリーズ,2011年10月11日発行)を読了。
「とりあえず今はこんな仕事をしているけど,自分はほんとうはこんなことをしたいんじゃない」
「ほんとうにやりたいことが見つかったら,自分はこんなもんじゃない。もっと本気で仕事に打ち込めるだろうし,力を発揮するはず」
このように自分に言い聞かせることで,惰性に流されて何となく過ごしている自分,思うように力を発揮できない自分,目の前の仕事に勤勉になれない自分についての言い訳ができる。「これは,ほんとうの自分の姿ではない」と。(p. 83)
自分に言い聞かせることで,うまくいかない現実から逃避する。
しかし,現実を打ち破るのは難しい。
輝いているカッコイイ自分,賞賛されたい自分というものと,現実には冴えない自分,どうもパッとしない自分。そのギャップを埋めるための動きが取れればよいのだが,惰性に流されるばかりで気力が湧いてこないという人も少なくない。そんなとき,現実の情けない自分を受け入れる辛さから逃れるために,「誇大自己」が築かれる。それにより,どんなに現実の自分がパッとしないものであっても,「自分はこんなもんじゃないのだ」といって自分を慰めることができる。(p. 87)
誇大自己は,自分を慰めるためにはいいものであるが,他人の誇大自己は見るに耐えない。
国政を見ていても,日本の総理大臣は,自分の主義主張で動くというよりも,自分の属する組織の中に不満が生じないようにみんなの要求充足のバランスをとることに腐心する。そのため,だれがなっても大して変わらないと揶揄されることになる。これも母性本能が強いことと無関係ではないだろう。(p. 200)
父なる総理大臣が求められているということか。
バランスよりも一点突破する総理大臣がいてもいい。
では,母性原理や父性原理というのは,いったいどのようなものなのか。
河合は,「よい子だけがわが子」というのが父性原理とすれば,「わが子はすべてよい子」というのが母性原理だとしている。(p. 201)
よい子以外はわが子ではないので,見捨ててもよいだろう。