2020年6月1日更新
『大相撲新世紀 2005 - 2011』(坪内 祐三,PHP新書,2012年5月1日発行)を読了。
若貴ブームは力士の大型化と重なるが,その大型化によって相撲がつまらなくなったように私は感じた。
だから朝青龍の登場は新鮮だった。
朝青龍が圧倒的に強くなっていく頃から私の相撲への関心は復活した。(p. 17)
大型化した相撲界に,圧倒的なスピード感を持ち込んだ朝青龍は,時代を切り拓いたヒーローだろう。
朝青龍がいなかったら大相撲の世界はどうなっていただろう。群雄が割拠し,ブームが復活していただろうか。
私はそうは思わない。
朝青龍がいてくれたからこそ,大相撲はギリギリ,あの程度の凋落で待ったのだ。(p. 28)
ヒール役の朝青龍がいたからこそ,あの程度の凋落だった。
朝青龍は,自分はとても小心者である,と以前から口にしていた。
小心者であるから,自分を打ち負かす可能性を持った力士が現れたら,その可能性が実現する前に,自分の怖さ(強さ)をその力士に見せつける(朝青龍は天才としか言いようのない身体能力を持っているのに一方でそのように小心である所が魅力的だった――だからその朝青龍を八百長と批判していた武田某には一体朝青龍の相撲を本当に見たことがあるのかと言ってやりたかった)。(p. 58)
朝青龍の身体能力は,群を抜いていた。
それに匹敵する身体能力を持つ白鵬が同じ時代にいたというのが,まさに宿命。
つまり相撲人気が本格的に復活するための,大事な地方巡業だったのだ。そういう勢い,時代の風を,一番の役力士横綱である朝青龍がまったく感じていなかったことに,最大の問題がある。よし自分が中心になって頑張ろうと思うべきだったのだ。(p. 99)
朝青龍は,自分に求められていることをわからなかった。
いや,わかろうとしなかった。
白鵬の相撲は,強いというよりも,単に負けない相撲のように思えた。いわゆる華というものをあまり感じなかった(その点で,少年時代にいだいた大鵬への印象と似ている――私は断然柏戸派だった)。(p. 196)
華がない,けれども,負けない。
負けないというのは,やはり一つの華だろう。
その意味で白鵬の連勝記録を六十三(それは神話世界の力士谷風とタイ記録だ)で止めたのが稀勢の里だったのはとても物語的だった。
稀勢の里は最近の若手力士には珍しく銀幕感のある関取だ。だから彼は根強い人気があるのだろう。(p. 202)
ついに稀勢の里は横綱になった。
連勝記録を止めたのが,稀勢の里のハイライトだとしたら,とても寂しい。
こう見てくれば五回のピークは必ずといっていいくらい,日本国家あるいは社会の危機に一致する。安定期に大力士が現れたためしがない。しかもやがてピンチを克服する胎動を内に秘めた民族の予兆とも取れる。(p. 271)
大力士が現れるタイミングは,あまり日本国家あるいは社会の危機に一致しないのではないか。
平成の大横綱である貴乃花の例がある。