2020年5月21日更新
『傷つきやすくなった世界で』(石田 衣良,日経プレミアシリーズ,2008年5月8日発行)を読了。
近い将来,日本でもまた極右が復活することがあるのかもしれない。それは杞憂だという人もいるけれど,日本人の流れやすさを見ると,今後よほどの注意が必要になるのではないか。堂々と核武装を求める政治家もいるくらいなのだ。(p. 16)
2016 年アメリカ大統領選挙を見ると,流されやすいのは,日本人だけではないのかもしれない。
理由は単純である。仕事のできる人はほぼ必ず,なんらかの情報のスクラップをつくっているからだ。新しい企画やアイディアを考えるとき,自分でつくったスクラップはびっくりするほど役に立つ。これは小説家でも,サラリーマンでも変わらない。(p. 23)
このブログも,スクラップの一つ。
政府も少子化対策に本気で切りこむなら,ただ養育補助金をだすとか,保育園を増やすだけでなく,日本の労働習慣まで考えないといけないだろう。明日から週に三日はノー残業デイをつくり,その代わり夜遊びにでなければならない法律をつくったらどうだろう。きっと日本人のなかに眠るラテンの血が目覚めると思うのだけれど。
ワーク・ライフ・バランスという言葉が,やっと使われ始めた。
抜本的な対策が採られていないのはなぜだろう。
ぼくは現在の過重な残業体制が,日本人から創造性を奪っていると思えてならない。真の創造性は生きることをたのしむ余裕から生まれるはずだ。遊びのないところに,新しい創造の芽はない。(p. 67)
余裕がなければ,クリエイティブな仕事はできない。
みんなそろそろ年収や生涯賃金を幸福を計る手段にするのはやめませんか。幸福や人生の満足度は毎月の給与の合算とは,ほど遠いところにあるというのは,大人になったら常識だと思う。なにはともあれ,贅沢はそれなりに素敵だけれど,自分の基準を揺らすのはやめよう。プレイスタグの競争にまきこまれるのは,ごめんだからね。(p. 216)
年収や生涯賃金が,幸福や人生の満足度にどれだけ寄与しているのか。
ぼくたちの時代は知の時代である。なにかを知ることが,力であり善だと無意識のうちに考えられている時代だ。だが,人という存在のなかには,とうてい理解不可能な悪がある。それを知ることで,逆に悪い影響を受けるほどの毒が眠っているのだ。(p. 227)
知ってはいけないこともあるが,知ることが力であり,善である。
ぼくはときどき不思議に思うことがある。格差社会という言葉ができるまで,社会にたいした格差は存在しなかったのではないか。あるいは,負け組という言葉ができるまで,ほとんどの日本人は自分を中流階級だと単純に信じられたのではないか。ある現象が名前を与えられることで,あとから急激にリアルな現実として立ちあがってくる。それは言葉が現実を生んでしまう皮肉な逆転現象である。(p. 238)
ある現象に名前が与えられることで,一人歩きしてしまう。