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現役サラリーマンのスキルアップのための読書まとめ

「できる人」はどこがちがうのか 斎藤 孝

2020年5月8日更新

『「できる人」はどこがちがうのか』(斎藤 孝,ちくま新書,2001年7月20日発行)を読了。

 私の考えるところでは,学校の主な役割は,物事ができない状態からできるようになるまでの上達のプロセス・論理を普遍的な形で把握させることにある。(p. 7)

具体的な何かをできる,ということではなく,何でもいいからできるようになるまでの体験をさせることに意味がある。

 一芸に秀でた人は,みな何か重要な共通の認識を持っている,としばしば言われる。ある道において,相当なレベルまで上達をした人は,上達一般についての認識を得ているように思われる。(p. 9)

将棋棋士の羽生さんは,他の分野のエキスパートとしばしば対談されている。その対談の中から自分に取り込めるものを,貪欲に取り入れているようだ。

 大人が確信を持って伝授・伝承すべきものを持たない社会は,当然不安定になる。たとえ子どもたちの世代が,それに反抗するにしても,そのような伝承する意志には意味がある。世によく言われる子どもの問題の多くは,子どもたちに何を伝えるべきなのか」について大人たちが確信や共通認識を持てなくなったことに起因している。(p. 16)

子どもに示す姿を,大人が見失っていることが原因か。
あるべき日本の姿や,これから目指していく日本の姿を示してあげなければならない。

こうした二項対立は,いくつかをうまく組み合わせれば,リアリティを捉えやすくしてくれる。しかし,あまり単純に二項対立によって二分したままで思考をストップさせてしまうと,リアリティとずれたところで,単純に物事を整理しすぎる危険性がある。(p. 33)

善悪など,二項対立はわかりやすいが,本質を損ねていることを認識する。

 要約の基本は,肝心なものを残し,そのほかは思い切って「捨てる」ことにある。捨てると言っても,まったく無意味にしてしまうわけではなく,切り捨てたものが,残されているものに何らかの形で含まれているような関係を保っているのがベストである。要約力とは,すなわち「重みづけ」を常に意識することである。(p. 40)

様々な場面において,要約することが求められている。うまく要約することができるということは,大事なものが見えていることである。

 数冊の大意要約を短時間でこなせる技術は,それを基本技術だとまず認識しトレーニングすることで,相当程度身につく性質のものである。(p. 50)

膨大な資料の中から,自分の主張を裏付けるものを短時間で探すことが求められている。これを実行するためには,訓練しかないか。

「感動」は上達の根源的なパワーである。感動とあこがれが根底に出発点としてあれば,自分にとって苦手なことでも耐えることができる。逆に感動やあこがれがなければ,上達の普遍的な論理を追及する意欲は湧かない。(p. 154)

うまくいったという成功体験や,うまくやっている人へのあこがれが,上達を目指すモチベーションになる。

 ポイントは,一度しっかりとリズムを身体に染み込ませるというところだ。仕事をやっていて乗ってくるというときがある。仕事がうまくいくときや何かのコツを掴むときは,自分の体のリズムやテンポと,その仕事に最適なリズムやテンポが合ったときである。自分の身体のリズムと仕事のリズムを重ね合わせていくところに,上達の秘訣がある。(p. 203)

うまくいかないときは,色々試してみる。その中に,自分のリズムやテンポを見つけて,体に染み込ませよう。

「本当に必要な力とは何か」という根本的な疑問に真正面から向かうべき時が来ている。それは仕事の領域でも学校でも同じだ。この問いを私なりに煮詰めた結果,出てきたのが,まねる(盗む)力・段取り力・コメント力という<三つの力>と「スタイル」というコンセプトであった。(p. 217)

変化のスピードが速い今日においては,<三つの力>と「スタイル」というコンセプトが必要なのか。

学校での勉強があれほど嫌われるのは,そこに「意味」が足りないからではないか。その領域のみに閉じるのではなく,他の領域や仕事にどのようにつながっているかを説得できるコンセプトが必要なのではないか。領域をまたぎ越すヴィジョンを持つとき,同じ事柄でもまったく意味が変ってくる。(p. 218

「意味」を伝えることができる大人になる。

「できる人」はどこがちがうのか (ちくま新書)

「できる人」はどこがちがうのか (ちくま新書)

  • 作者:斎藤 孝
  • 発売日: 2001/07/01
  • メディア: 新書