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論文の書き方 清水 幾太郎

2020年5月2日更新

『論文の書き方』(清水 幾太郎*1岩波新書,1959年3月17日発行)を読了。

もちろん,読むという働きは,聞くという働きなどに比べれば,多量のエネルギーを必要とする。しかし,書くという働きに必要なエネルギーは,読むという働きに必要なエネルギーを遥かに凌駕する。(p. 6)

読むのは,横になりながらでもできる。
一方,書くのは,机に向かって行わなければできない。
その点においても,書くエネルギーは,読むエネルギーより大きい。

読む人間から書く人間へ変るというのは,言ってみれば,受動性から能動性へ人間が身を翻すことである。書こうと身構えた時,精神の緊張は急に大きくなる。この大きな緊張の中で,人間は書物に記されている対象の奥へ深く突き進むことが出来る。(p. 8)

書くことは,能動的になること。
書こうと身構えたときから,プッシュ型の人間に変わる。

ところが,日本語の世界では,否定と肯定とが往々にして曖昧になる。会話でも,文章でも,前に否定された筈のものが,後に軽く肯定されたりすることが多い。否定なのか,肯定なのか,それが曖昧な文章が深みのある言い方と見られたり,味わいのある表現と見られたりする。(p. 45)

書く場合は,曖昧な表現はできるだけ避けよう。

しかし,その日本語で文章を書くという時は,この日本語への慣れを捨てなければいけない。日本語というものが意識されないのでは駄目である。話したり,聞いたりしている間はそれでよいが,文章を書くという段になると,日本語をハッキリ客体として意識しなければいけない。(p. 87)

話し言葉で使っている日本語と,書き言葉で使っている日本語は似て非なるものと心得よ。

文章を書くのには,日本語に対する甘ったれた無意識状態から抜け出なければならない。日本語を自分の外部に客観化し,これを明瞭に意識化しなければならない。文章を書く人間は,日本語を一種の外国語として慎重に取扱った方がよい。(p. 101)

文章を書く場合,日本語は外国語として取扱う。
わからなければ,辞書を引く。
文章を声に出して読むことで,リズムの良し悪しを判別する。

「まだ,多くの論ずべき問題が残っているが,紙数が尽きたので,残念ながら……」などという結論だけは,何としても,やめるべきである。(p. 128)

紙数が尽きた,という表現はフェルマーの最終定理だけしか通用しない。

 私の経験では,複雑な内容を正しく表現しようとすればするほど,一つ一つの文章は短くして,これをキッチリ積み重ねて行かねばならないように思う。日本語の文章構成から見て,これは避け難いであろう。この場合も,読者にとって見覚えのある事柄であれば,事情は違って来るが,それがあまり期待出来ない時は,どうしても,短くなければいけない。(p. 211)

短い文章で,事実を積み上げて,複雑な内容を伝える。

 文章を機械のように作ろう。文章を建築物として取扱おう。曖昧な「が」を警戒しよう。親骨を見失わないようにしよう。経験と抽象との間の往復交通を忘れまい。日本語の語順に気をつけよう。(p. 225)

あまりこだわらず,機械のように文章を作ればよい。

文章を作るのは,思想を作ることであり,人間を作ることである。ニーチェは言っている。「文体の改善とは,思想の改善のことである。」(Den Stil verbessern heisst den Gedanken verbessern.)(p. 229)

文体を改善しようとすれば,その文体の背後にある思想も改善できるということか。

論文の書き方 (岩波新書)

論文の書き方 (岩波新書)

 
論文の書き方 (岩波新書)

論文の書き方 (岩波新書)

 

 

*1:1907 年 - 1988 年。1931 年 東京大学文学部社会学科卒業。当代一流の文章家。