2020年4月9日更新
『無思想の発見』(養老猛司,ちくま新書,2005年12月10日発行)を読了。
若者のいう「自分探し」の自分,「自分に合った仕事」の自分も,トーストの厚みの違いていどの,ごく「軽い」自分なのであろう。だとすれば,「自分は世間が作る」なんて述べても,「なんのこっちゃ」と思うであろう。(p. 51)
自分探しと言っても,違う自分は見つからない。
この本*1で最初に扱われるのは,大臣の失言問題である。多くの大臣が本音を吐いて,クビになった。政治家というのはマキャベリストで,
「いかに人を上手にだますかに長けた人だ」
と考えるなら,
「正直に本音をいうような政治家はクビだ」というのは,私にはわからないではない。(p. 77)
マキャベリストとは,目的のためなら手段を選ばない人間を指す。
「思想というものは,本来,大虚構であることをわれわれは知るべきである。思想は思想自体として存在し,思想自体にして高度の論理的結晶化を遂げるところに思想の栄光があり,現実とはなんのかかわりもなく,現実とかかわりがないというところに繰りかえしていう思想の栄光がある。」(「異常な三島事件に接して」,『司馬遼太郎が考えたこと 5』新潮文庫)(p. 110)
思想とは虚構。
設計思想は,虚構に過ぎないことをわれわれは知るべき。
完全な思想があると信じ,それを追求するのは結構だが,俺の思想が正しいというのは間違っている。原理主義者には,そう説くしかない。それでは説得力がない。そう思う人もあろう。でも,あまり説得力があると,ヒットラーになってしまうのである。(p. 227)
思想は正しいと思い込んではいけない。
そもそも思想は虚構なのだから。
「私は私,個性のあるこの私」「本当の自分」を声高にいうのは,要するに「実体としての自分に確信がない」だけのことである。「本当の自分」が本当にあると思っていれば,いくら自分を変えたって,なんの心配もない。だって,どうやっても「変えようがない」のが,本当の自分なんだから。(p. 234)
「本当の自分」とは自分の身体のことである。
意識はどうでもいい。