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現役サラリーマンのスキルアップのための読書まとめ

無宗教こそ日本人の宗教である

無宗教こそ日本人の宗教である』(島田裕巳角川oneテーマ21)を読了。

9.11 にしても,その背景には,長年にわたるキリスト教イスラム教との確執がある。どちらの宗教も,一神教であり,一つの神しか認めないことで,排他的な姿勢を示している。テロの原因には,経済的なものも含め,さまざまな事柄が考えられるが,宗教の根本的な性格がもっとも大きな原因となっていることは否定できない。(p. 34)

排他的な姿勢が対立を生み出す。

浄土真宗では,開祖である親鸞が,日本の神々を信仰の対象としないとする「神祇不拝」の教えを説き,神道の信仰を否定している。したがって,現在の浄土真宗でも,神祇不拝を強調しているが,現実には,浄土真宗の強い北陸地方でも,それぞれの村には神社が存在し,地域の信仰を集めてきた。(p. 47)

浄土真宗が多い我が村にも,神社が存在している。

その際には,一神教多神教が対比され,寛容ではなく排他的な一神教に対して,たくさんの神々が信仰される多神教の寛容さや,非排他的な姿勢が評価された。そこには,多神教に基板をおく,日本の精神文化を高く評価しようとする精神的な傾向を見ることができる。(p. 53)

寛容さ,非排他的な姿勢が評価されている。
その寛容さと非排他的な姿勢は,日常生活でも持ちたいものだ。

その村を統合するシンボルとなっているのが,村の鎮守となる神社である。神社では,その年の稲の収穫が豊かなものになることを祈って祭礼が行われる。無事に収穫が終われば,それを感謝して,また祭礼が営まれる。(p. 75)

我が村の若者のほとんどがサラリーマンとなり,収穫をあまり意識しなくなった今日においても,祭礼が営まれている。

自分たちを無宗教だと公言する日本人は,実は,「無」ということに限りない魅力を感じてきた。そうした意識がなければ,無宗教であることに誇りを持つまでにはいたらないであろう。(p. 80)

「無」を誇りとする日本人には,「無常」とかそういった感覚がとても合う。

私は私であり,他者のこころは分からない。それが,前提のはずである。ところが,こころを一つにするという表現が成り立つ日本社会では,自分の気持ちと他者の気持ちとが重なり,私が相手のこころを理解し,相手も私のこころを理解することが,十分に可能だと考えられている。(p. 89)

「こころを一つにしよう」という言葉は,考えてみれば確かに違和感がある。

欧米の個人主義と,日本の集団主義は対比されるが,上司の命令が絶対とされていると,部下が自分たちのすべきことに納得した上で創意工夫を行い,結束して事に当たる余地は生まれない。こころが一つにならなければ,集団のパワーは発揮されないのである。(p. 91)

トップダウンというより,チームで結束して事に当たっていくのは日本の集団主義独特のものだったのか。

19世紀前半のヨーロッパ人は,仏教を,神を完全に否定する無神論の極端な形態と考えた。天才的な東洋学者であったフランス人のウージェーヌ・ビュルヌフはその著書のなかで,釈迦は「思考原理の消滅(アネアンティスマン)のなかに至高の善を見ていた」と記している。(p. 98)

思考原理の消滅とは何か。
考えない,無になることが至高の善なのか。

このように,20世紀の終わりから21世紀のはじめにかけて,世界各地で,さまざまな宗教を背景とした原理主義が勃興し,対立と抗争をくり返すことで,世界平和を脅かすまでになった。こうした事態は,世俗化が宗教学の主たるテーマになっていたわずか30数年前には考えられないことだった。(pp. 106 - 107)

愚直なまでに宗教に頼る中で,原理主義が勃興していったのだろうか。

国家があてにならない状況のなかで,人々が頼れるものは宗教である。宗教は,人々を結束させる力を持つとともに,相互扶助の態勢を確立することで,困窮しても,国家によって救われない人々に救済の手を差し伸べていく。さらには,宗教が提供するビジョンは,生活が困窮した人々に明日への希望を与えていくのである。(p. 108)

国家が頼りにならないのならば,宗教を頼る。
宗教に希望を見出せたとしても,困窮から抜け出すことはできないのではないか。

宗教は本来,平和を志向すると言われるが,事態はそうした方向には向かっていない。むしろ,宗教が世界平和を脅かす最も危険な要因にさえなっている。(p. 109)

なぜ平和を志向するはずの宗教同士で対立が起こるのだろうか。
宗教というレッテルに隠された利害関係があるからではないだろうか。

しかし,遡れば,日蓮の教え自体に排他的な部分があった。日蓮は,「四箇格言」というものを残している。これは,他の仏教宗派を「真言亡国,禅天魔,念仏無間,律国賊」と評したものである。真言宗は亡国の徒であり,禅宗は魔にとりつかれ,浄土宗は無間地獄に堕ち,律宗国賊だというのである。(p. 114)

寛容な日本の中では日蓮の排他性は異質に見える。

原理主義者が理想として追い求める宗教のあり方は,純化されたもので,厳格な規律を求め,個人の宗教生活や生き方,あるいは社会秩序を宗教の原理によって強く拘束しようとする。そこには,高い倫理性が伴うこともあるが,厳格さの徹底した追求は,排外主義に結びつき,逸脱を許さない非寛容の状況を生み出していく。(p. 159)

キーワードは寛容であること。
寛容さがなければ対立が生まれる。

自分を探しても,最終的に何が見いだされるというのだろうか。自己にこだわり,他を見ないことで,疲弊してしまった存在しか見いだされないのではないか。私たちが生きる目的は,果たして自分探しにあるのだろうか。自分はすべての出発点なのだろうか。最終的な到達点なのだろうか。(pp. 163 - 164)

自分探しとは何なのか。
言われてみると自分とは何なのか,自分で自分を探すとは何なのか,不思議である。

日本でも本離れが進行している言われ,出版社が倒産したりしているが,電車のなかでさえ熱心に難しそうな本を読んでいる人たちの姿を見かける。書店にも,あふれるほどの本が積まれている。少なくとも,これほど文化的な面で好奇心にあふれた国民は他にいない。(p. 181)

このことが事実であるならば,好奇心にあふれた国民であることをアピールすべきである。
好奇心にあふれているからこそ,寛容な国民となっているのかもしれない。

無宗教こそ日本人の宗教である (角川oneテーマ21)

無宗教こそ日本人の宗教である (角川oneテーマ21)