2019年11月30日更新
NHK 出版新書『保守とは何だろうか』(中野剛志著,2013年10月10日 第 1 刷)を読了。
- 序章 迷走する「保守」
- 第一章 財政――なぜ保守は積極財政を支持するのか
- 第二章 金融――「過剰な営利精神」を抑制せよ
- 第三章 社会――「改革」はどのように行うべきか
- 第四章 科学――保守が描いた「知の方法論」
- 第五章 国家――保守のナショナリズムとは何か
金融緩和だけでは十分ではない理由は,資金需要が不足しているデフレ不況下では,貨幣の供給量を増やしたとしても,企業や消費者は,貨幣を投資や消費に回さずに貯金してしまうという現象が起きる場合があるからである。この現象を,ケインズは「流動性の罠」と呼んでいる。「流動性の罠」に陥った場合には,金融緩和をしても投資や消費の需要は増えないのである。(p. 84)
2019 年の日本は,流動性の罠に陥っているのか。
また,流動性の罠から抜け出す方法はあるか。
科学者は,理論というフィルターを通じてしか,事実を観察できない。科学者は自身の主観から完全には自由になれない。(p. 182)
理論というフィルターを取り去ることができれば,自身の主観から自由になれる。
しかし,簡単に理論というフィルターを取り去ることはできるだろうか。
ここで重要なのは,「文明化」と「無教養」が両立するものであるということである。文明と教養とは同じものではない。教養がなくとも,文明化はできるのである。
教養とは,内省の鍛錬と信仰によって,真の理性を育成することである。(p. 210)
「教養のある人」と思われるためには,日々の鍛錬が必要。
契約や法律に,人々に義務感を抱かせる道徳的な力を有する権威が宿っていなければ,秩序はありえないのである。ホップスは「剣なき法律は,単なる紙きれに過ぎない」と言ったが,正しくは「法律なき剣は,単なる鉄片に過ぎない」と言うべきなのだ。(p. 226)
剣と法律は表裏一体。