2019年12月24日更新
『原発と地震――柏崎刈羽「震度7」の警告』(新潟日報社特別取材班*1,2011年4月15日 第3刷)を読了。
製造者が口を閉ざしたままでいられる二重構造は,維持されるべきなのか。この疑問に対し,メーカーOBからも「今のメーカーに説明を担う部門はなく,その能力はない。しかし,これから説明は大きな仕事となる」との声が出ている。(p. 183)
国,発注者である電力会社を前にして,メーカーはどのように説明するか。
東京大大学院教授の班目春樹は「規則を突き詰めると,『新品同様でないと認められない。だから亀裂などがあってはならない』となる。制度に不備があった」と指摘。「それで東電問題のようにどんどんおかしなものが出てきた」と言う。(p. 187)
制度に問題があるならば,改めればよかった。制度を頑なに守ろうとした故に,不正を行うことになってしまった。
私*2の印象では,国と電力会社と重電メーカーとの長年の関係があまりに固定化し,安全性を公に評価する仕組みがないまま,すべてが既成事実化してきた。電力は必要だから,原発は造らないと仕方がないというわけです。評価や判断以前のところで,国の原子力政策が進んできたことに大きな問題がある。(p. 207)
安定した電気を送るため,原発は必要だった。
重大事故が起きれば,想像を超える惨事になる恐れがある原発。電力会社,国が全力を挙げて安全を確認し,耐震対策を講じるのは当然である。(p. 252)
2011年,想像を超える惨事が起きてしまった。
東電をはじめ原子力業界が社会への扉を自ら押し開くこと。それが運転再開の是非判断の前に超えなければならないハードルだ。(p. 253)
原子力業界は,どれだけ社会への扉を押し開いたか。